ROIだけのCMOはもういらない。AIが変える、マーケティング成果の「新モノサシ」

地中海の陽光が降り注ぐ南仏の街、カンヌ。毎年ここで開催される世界最大のクリエイティビティの祭典「カンヌライオンズ」は、時代の気分を最も敏感に映し出す鏡として機能してきた。そして2025年、その鏡が映し出したのは、疑いようもなく「AI」という巨大なテーマだった。生成AIが広告クリエイティブを数秒で生み出し、パーソナライゼーションは個客一人ひとりの深層心理にまでリーチしようとしている。会場は熱狂と興奮に包まれ、誰もがAIが拓く輝かしい未来を語っていた。

しかし、その華やかな舞台の裏側で、世界の企業のマーケティングを率いるCMO(最高マーケティング責任者)たちは、静かな、しかし深刻なジレンマに直面していた。CEOから「我が社のAI戦略は?」と問われ、投資家からは具体的な成果を期待される。その一方で、AIがもたらすのは本当にユートピアなのか、それとも既存の価値や組織を破壊する脅威なのか、その本質を見極めかねている。事実、世界的な調査機関がトップCMOたちに尋ねたところ、AIへの期待と脅威の認識は、見事に二分されたという。

AIという抗いがたい潮流を前に、日本のマーケティング責任者が自社の未来を賭けて下すべき「決断」とは何か?そのための思考のOS(オペレーティングシステム)はどのようなものか?

世界のCMOを二分する「問い」の本質

なぜ、AIマーケティングに対する見解はこれほどまでに割れるのか。それは、この問題が単なるツールの導入や技術の優劣の話ではないからだ。根底にあるのは、マーケティングという活動、ひいては企業と顧客の関係性をどう捉えるかという、極めて哲学的な「問い」である。

一方には、AIを「究極の効率化ブースター」と見る立場がある。マーケティングオートメーションの進化形として、AIが煩雑なデータ分析、広告配信の最適化、レポート作成といった業務を代替することで、人間はより戦略的な業務に集中できる、と。この視点では、投資対効果(ROI)の最大化が至上命題となる。

しかし、もう一方には、AIを「未知の創造性を解き放つパートナー」と見なす立場がある。人間では思いもよらないようなインサイトの発見、全く新しい切り口のクリエイティブ生成、顧客一人ひとりの感情に寄り添う超個別的な体験の創出。AIはコスト削減の道具ではなく、ビジネスの提供価値そのものを根底から変える触媒なのだ、と。この視点では、ROIだけでは測れない新たな価値創造がゴールとなる。

この「効率化」か「創造性」かという対立軸こそが、世界のCMOを悩ませるジレンマの震源地であり、他のあらゆる戦略的選択の出発点となる。

あなたの「現在地」を特定する:AI戦略の3つの座標軸

では、自社はどちらの道を選ぶべきなのか。その決断を下すために、ここでは3つの「戦略座標軸」を提示したい。これは、自社のAIマーケティングにおける現在地を客観的にマッピングし、進むべき方向を明確にするためのフレームワークである。

座標軸X:AIを「道具」と見るか、「頭脳」と見るか

これは前述の「効率化 vs 創造性」の問いに直結する最も基本的な座標軸だ。前者、すなわちAIを「道具」と見る企業は、既存の業務プロセスをいかに効率化できるかに焦点を当てる。導入するツールは明確な費用対効果が求められ、成功指標はCPAの改善やリード獲得数の増加といった、従来型のKPIで測定される。これは多くの企業にとって現実的で、着手しやすいアプローチである。

一方で、AIを「頭脳」と見る企業は、AIをマーケティングチームの一員、あるいはそれ以上の戦略的パートナーと位置づける。彼らは、AIが生み出す予測やインサイトを基に、これまで誰も気づかなかった市場機会を発見したり、ブランドの根幹を揺るがすような新しいストーリーを創造したりすることを目指す。この道は不確実性が高く、短期的なROIを証明することは難しい。しかし、成功すれば競合が決して模倣できない、圧倒的な優位性を築く可能性がある。

座標軸Y:組織を「適応」させるか、「再発明」するか

次に問われるのは、組織のあり方だ。AI戦略を推進する上で、既存の組織を「適応」させるのか、それともAI活用を前提にゼロから「再発明」するのか。これは、変化のスピードと深さを決定づける座標軸である。

「適応」を選ぶ企業は、既存のマーケティング部門内にAI推進チームを設置したり、一部の業務にAIツールを導入したりすることから始める。漸進的なアプローチであり、組織的な混乱を最小限に抑えながら、着実に知見を蓄積できるメリットがある。多くの日本企業にとって、まず選択すべきは、この道かもしれない。

対照的に、「再発明」を選ぶ企業は、AIが人間と協働することを前提とした、全く新しい組織構造とワークフローを設計する。データサイエンティスト、クリエイター、マーケターの垣根は曖昧になり、職務記述書(ジョブディスクリプション)も根本から書き換えられる。これは既存の組織文化との軋轢を生むリスクを伴うが、AIのポテンシャルを最大限に引き出すためには、避けて通れない道でもある。

座標軸Z:知見を「自前」で築くか、「協業」で得るか

最後の座標軸は、必要な専門知識や技術をどう獲得するか、というリソース戦略に関わる。AIという高度な専門領域において、その知見を「自前(内製)」で築き上げるのか、あるいは外部の力を借りて「協業」するのか。

「自前」主義を貫く企業は、AI人材の採用・育成に多大な投資を行い、独自のデータ基盤やアルゴリズム開発を目指す。これは、企業の競争力の源泉を自社内に留保し、ブラックボックスをなくす上で有効だ。しかし、技術の陳腐化が早いAI分野において、常に最先端を走り続けることは並大抵の努力ではない。

「協業」を選択する企業は、SaaSベンダーや専門のコンサルティングファーム、広告代理店など、外部のパートナーが持つ最高レベルの技術やノウハウを積極的に活用する。これにより、スピーディに高度なAIマーケティングを実践でき、自社は本来のコア業務に集中できる。ただし、パートナーへの依存度が高まり、自社にノウハウが蓄積しにくいという側面も持つ。

潮流の先を読む:日本市場における実践的シナリオ

これらの座標軸の上で、日本のマーケティング責任者たちは、どのような戦略を描き、実践しているのだろうか。ここでは、具体的な3つの企業シナリオを見ていこう。

シナリオ1:大手消費財メーカーの「ハイブリッド戦略」

マス広告で巨大なブランドを築き上げてきたある大手消費財メーカー。彼らはAIを「効率化の道具」と「創造性のパートナー」の両面で活用するハイブリッド戦略をとる。需要予測やメディアバイイングの最適化には積極的にAIを導入し、数億円単位のコスト効率化を実現。その一方で、捻出された予算を「未来創造」部門に再投資。ここでは、AIを用いて数千パターンの消費者インサイトを抽出し、ニッチだが熱狂的なファンを持つ新商品の開発に成功した。既存事業の守りと、新規事業の攻めをAIで両立させる、バランスの取れたモデルだ。

シナリオ2:急成長SaaS企業の「破壊的イノベーション」

創業当初からデータドリブンな意思決定を徹底してきたあるSaaS企業は、AIを「頭脳」と見なし、組織を「再発明」する道を選んだ。彼らのマーケティングチームには、「グロースハッカー」や「AIエバンジェリスト」といった、従来にはない役職が存在する。AIによる顧客解約予測モデルを事業の核に据え、マーケティング、セールス、カスタマーサクセスが一体となった組織が、予測スコアに基づいてプロアクティブに顧客にアプローチする。内製化したAIモデルそのものが、彼らの強力な競争優位性となっている。

シナリオ3:伝統的BtoC企業の「現実的DX」

全国に店舗網を持つある伝統的な小売企業は、AI導入に大きな可能性を感じつつも、組織的な変革には慎重だった。彼らが選んだのは、「適応」と「協業」を軸とした現実的なアプローチだ。まずは長年の付き合いがある広告代理店と共同で、AIを活用した販促キャンペーンの最適化プロジェクトを開始。小さな成功体験を積み重ねることで、現場のAIに対するアレルギーを払拭し、徐々に活用範囲を広げている。一見、地味な一歩だが、組織全体のデジタルリテラシーを着実に向上させる、堅実な戦略と言える。

成果を測る「モノサシ」は、もう変わっている

これら多様な戦略の成果を、従来のROIやCPAといった「モノサシ」だけで正しく測ることはできるだろうか。答えは否だ。AIがマーケティングの目的やプロセス自体を変えるのであれば、その成果指標もまた、進化しなければならない。

コスト効率化の先にある、AIがもたらす真の価値。それは、顧客との関係性の「質」の変化に他ならない。だからこそ、これからのCMOは、従来の経営指標に加え、新たなモノサシを経営陣に提示する必要がある。

例えば、AIが生成したクリエイティブが、どれだけ人間の感情を揺さぶったかを測る「感情的接続(Emotional Connection)スコア」。あるいは、パーソナライゼーションが顧客のブランドへの信頼や愛着をどれだけ深めたかを示す「ブランドエンゲージメント深度」。さらには、AIの活用によって、マーケティング施策の仮説検証サイクルがどれだけ高速化したかを示す「マーケティング学習速度(Marketing Velocity)」といった指標だ。これらは、AI時代のマーケティング活動の成果を、より本質的に捉えるための新しいレンズとなる。

結論:AIが破壊するのはマーケティングではない。CMOの「思考停止」である

カンヌの熱狂から見えてきたのは、AIがもたらす単一の輝かしい未来ではなかった。そこにあったのは、無数の可能性と、それを選ぶ「決断」の重みである。

AIは、マーケティングを破壊するのだろうか。おそらく、そうではない。AIが真に破壊するものがあるとすれば、それは「これまで通り」を続ける安易な思考停止であり、変化を前に目を閉ざすCMO自身の怠慢だ。

AIは答えを与えてくれる魔法の杖ではない。それは、私たちに新しい「問い」を投げかける、知的な鏡である。この記事で提示した3つの座標軸を参考に、ぜひあなたのチームで議論を始めてほしい。

  • 我々にとってAIは、コスト削減の道具か、それとも新たな価値創造のパートナーか?
  • 我々の組織は、AIに「適応」するだけで十分か、それとも「再発明」する必要があるのか?
  • 3年後、我々のマーケティングチームは、どのようなスキルと知見を持つべきか?

この問いにどう答えるか。その決断こそが、あなたの会社の未来を創る。AI時代のマーケティングの主役は、AIではない。問いを立て、ビジョンを描き、リスクを取って決断する、CMO、あなた自身なのだ。

この記事の筆者・監修者

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HQLab編集部

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