
「マーケティング責任者(CMO)」という役職を、あなたの会社ではどのように位置づけているでしょうか。もし、その役割が「広告宣伝やプロモーションの統括者」という認識に留まっているとしたら、それは企業の成長機会を大きく損なっているサインかもしれません。デジタル化が顧客とのあらゆる接点を塗り替え、データが事業戦略の根幹を揺るがす今、旧来のCMO像はもはや現代の経営環境に対応しきれなくなっています。
実際に、マーケティング最高責任者の役割と経営陣の期待との間には、深刻なズレが生じ始めています。これは単なる役職名の問題ではありません。事業の成長エンジンであるべきマーケティング機能が、そのポテンシャルを最大限に発揮できていないという経営課題そのものです。この記事では、肩書きの議論に終始するのではなく、貴社の事業成長を真に加速させるための「マーケティング最高責任者」の役割を、いかに再定義し、組織に実装していくか、その具体的な道筋を探ります。
なぜ「CMO」という名の羅針盤が狂い始めたのか
かつてマーケティングの主戦場がマス広告であった時代、CMOの役割は比較的明確でした。ブランド認知を向上させ、販売活動を支援することが主なミッションでした。しかし、現代のビジネス環境はこの前提を根底から覆しました。
顧客はもはや、企業からの一方的なメッセージを受け取るだけの存在ではありません。SNSで情報を交換し、レビューサイトで評価を定め、オンラインで購買を完結させます。顧客接点は爆発的に増加し、そのすべてがデータとして蓄積されるようになりました。その結果、CEOがマーケティングに求めるものも劇的に変化したのです。
単なる「コストセンター(経費を使う部門)」としての活動ではなく、事業のトップライン(売上)に直接貢献する「プロフィットセンター(利益を生む部門)」としての機能が、マーケティング部門にはっきりと期待されるようになりました。この期待の変化に、従来の「CMO」という役割定義が追いついていない。それが、今多くの企業で起きている問題の核心です。羅針盤が指し示す先と、船が進むべき航路が、ずれてしまっているのです。
自社の現在地を知る:成長エンジンを診断する2つの軸
では、自社にとって最適なマーケティング責任者の姿を描くには、どこから手をつければよいのでしょうか。まずは、他社の事例を追いかける前に、自社の「現在地」を客観的に把握することから始めましょう。ここで鍵となるのが、「事業モデル」と「成長ドライバー」という2つの診断軸です。
軸1:事業モデル – 誰に価値を届けるか
あなたのビジネスは、主に企業(BtoB)と取引していますか、それとも一般消費者(BtoC)に直接製品やサービスを提供していますか。これは、マーケティング活動の性質を決定づける根本的な違いです。BtoBであれば、長い検討期間と複数の意思決定者が介在する複雑なプロセスへの対応が求められます。一方でBtoCは、広範な顧客層に対するブランドの浸透と、個々の顧客との継続的な関係構築が重要になります。
軸2:成長ドライバー – 何で差をつけるか
次に、貴社の成長を牽引する最も重要な要素は何かを考えてみましょう。それは、競合を圧倒する「製品・技術革新」でしょうか。あるいは、顧客を熱狂させるほどの「顧客体験(CX)」でしょうか。それとも、マーケティングから営業までの一連のプロセスを効率化し、商談化率を高める「営業・販売効率」でしょうか。もちろん、これらは相互に関連しますが、最も強く意識している競争優位の源泉は何かを特定することが重要です。
少し想像してみてください。この2つの軸で構成されるマップ上で、あなたの会社はどの領域に位置するでしょうか。このポジショニングこそが、これから考えるべきマーケティング最高責任者の役割を指し示す、重要なコンパスとなります。
処方箋:日本企業におけるマーケティング最高責任者、3つの進化形
自社の現在地が明らかになったところで、具体的な処方箋を見ていきましょう。国内の先進企業の動向を踏まえると、マーケティング最高責任者の役割は、大きく3つの「進化形」に分類できます。これは優劣ではなく、企業の戦略に合わせた最適化の結果です。
最高収益責任者(CRO)モデル:営業とマーケティングの壁を壊し、収益を最大化する
フィットする企業: BtoB事業が主体で、「営業・販売効率」を成長ドライバーとする企業(特にSaaSビジネスなど)。
役割とミッション: CRO(Chief Revenue Officer)は、マーケティング、インサイドセールス、フィールドセールス、カスタマーサクセスといった、顧客から収益を生み出す全てのプロセスに横断的に責任を持ちます。そのミッションは、各部門のサイロ化を解消し、見込み客の創出から受注、そして顧客維持までを一気通貫で最適化し、収益の最大化を実現することです。従来のCMOと営業部長が、それぞれのKPIを追いかけることで生じていた断絶を、CROは組織構造から解消します。
主要KPIの例: パイプライン(商談)創出額、商談化率、受注率、顧客獲得コスト(CAC)、LTV(顧客生涯価値)。
最高顧客体験責任者(CXO)モデル:顧客の熱狂を創造し、LTVを極大化する
フィットする企業: BtoC事業が主体で、「顧客体験」を成長ドライバーとする企業(リテール、サービス、サブスクリプションビジネスなど)。
役割とミッション: CXO(Chief Experience Officer)またはCCO(Chief Customer Officer)は、顧客が製品やサービスを認知し、購入し、利用し、そしてファンになるまでの全てのタッチポイントにおける「体験の質」に責任を持ちます。マーケティングコミュニケーションだけでなく、店舗設計、ウェブサイトのUI/UX、サポートセンターの応対品質、製品そのものの使いやすさまでを統括し、一貫した優れた顧客体験を設計・提供します。その目的は、顧客満足度とロイヤルティを高め、LTVを極大化することです。
主要KPIの例: NPS®(ネット・プロモーター・スコア)、顧客維持率、リピート購入率、LTV。
最高ブランド・グロース責任者(CBGO)モデル:ブランド資産を事業成長に転換する
フィットする企業: 「製品・技術革新」をドライバーとし、強力なブランドが事業成長に不可欠な企業(グローバルメーカー、消費財ブランドなど)。
役割とミッション: CBGO(Chief Brand and Growth Officer)は、短期的な売上獲得と、中長期的なブランド価値の構築という、時に相反する二つの目標の両立に責任を持ちます。先進的な技術や製品の価値を、市場が理解し共感できるブランドストーリーへと昇華させ、グローバル市場でのプレゼンスを確立します。単なるマーケティング活動に留まらず、M&Aや新規事業開発といった成長戦略にも深く関与し、ブランドという無形資産を具体的な事業成長へと転換させることがミッションです。
主要KPIの例: ブランド価値・認知度、マーケットシェア、新規事業・新市場からの収益率。
実践:期待値という名の「見えない壁」を壊すフレームワーク
自社に合ったモデルが見えてきても、それだけでは改革は進みません。最も手強い障壁は、経営者とマーケティング責任者の間にある「期待値のズレ」という見えない壁です。CEOは「もっと売上に貢献してほしい」と考え、マーケティング責任者は「ブランドへの投資が理解されない」と嘆く。この溝を埋めない限り、どんな素晴らしい肩書きも機能しません。
この壁を壊すために必要なのは、精神論ではなく、対話のための具体的な「フレームワーク」です。役職を定義する前に、まずはお互いの期待値をテーブルの上で可視化し、合意を形成するプロセスが不可欠です。
CEOが言語化すべき「マーケティングへの期待」
マーケティング責任者に求める成果とは、具体的に何でしょうか。「売上アップ」といった曖昧な言葉ではなく、1年後、3年後に達成していてほしい状態を、具体的な指標で示す必要があります。例えば、「新規顧客からの売上を年間20%増加させる」「主要製品のマーケットシェアを5%引き上げる」「顧客単価を10%向上させる」といったレベルまで分解し、その優先順位を明確にすることがCEOの役割です。
マーケティング責任者が提示すべき「事業貢献への約束」
一方、マーケティング責任者は、CEOから提示された期待に対し、それを達成するための戦略と必要なリソースを具体的に提示する責任があります。「その目標を達成するためには、これだけの予算と、これだけの権限(例:価格設定への関与、セールス部門との連携強化など)が必要です」と、ロジカルに説明しなくてはなりません。これは、単なる要求ではなく、成果に対する「コミットメント(約束)」の提示です。
この対話を通じて、目標、主要KPI、予算、権限、そして報告形式について明確な合意書を交わすくらいの徹底が、後の「こんなはずではなかった」を防ぎます。
結論:肩書きを超え、経営の「共同操縦士」を目指すために
ここまで、マーケティング最高責任者の役割を再定義するための診断軸、進化形モデル、そして実践的なフレームワークを見てきました。CRO、CXO、CBGOといった肩書きは、あくまで自社の戦略を組織に反映させるための有効なツールです。
しかし、最も重要な本質は、肩書きそのものを変えることではありません。真の目的は、マーケティングという機能を、経営の中枢に正しく位置づけ、その責任者がCEOの視座を持って事業全体を俯瞰できる「共同操縦士」となることです。マーケティング責任者がPL(損益計算書)だけでなくBS(貸借対照表)の視点を持ち、自らの活動が企業価値全体にどう貢献するのかを語れるようになった時、初めてマーケティングは本来の力を発揮します。
この記事を読み終えた今、ぜひ一度立ち止まり、考えてみてください。あなたの会社の成長をドライブするエンジンは、今、本当に最適な形で設計されているでしょうか。そのエンジンを動かす責任者は、明確な航路図を持って、経営という船を力強く前進させているでしょうか。その問いと向き合うことこそが、未来の成長に向けた、最も価値ある第一歩となるはずです。