コンプライアンス研修で他社の不祥事を題材にしても、受講者の反応は「うちとは規模が違う」で終わります。自分の業務と結びつかないためです

効果が出るのは、自社で実際に起きたインシデントを扱ったときです。ただし、そのまま使えば当事者が特定され、以後インシデントは報告されなくなります。

本記事では、自社の事例を教材に変換する手順を4段階に分け、併せてその過程で業務設計の欠陥を洗い出す方法を示します。研修全体の設計はコンプライアンス研修はなぜ形骸化するのか|行動が変わる設計への作り替え方で扱っています。

なぜ他社事例では変わらないのか

他社の不祥事自社のインシデント
受講者の反応「規模が違う」「業種が違う」「その状況は分かる」
自分の業務との距離遠い同じ
分岐点の具体性報道された範囲でしか分からないどの時点で何ができたかを特定できる
議論の深さ一般論で終わる「自分ならどうしたか」に入る
副次的な効果なし業務設計の欠陥が洗い出される

最終行が見落とされます。自社事例の分析は、教材を作る作業であると同時に、業務プロセスの点検になります。ここを意識して進めると、同じ工数で2つの成果が出ます。

抽象化の4段階

段階1:事実を時系列で書き出す

まず、起きたことをそのまま並べます。この段階では抽象化しません。

書く項目は次のとおりです。

  • いつ、どの工程で、何が起きたか
  • 誰が、どの判断をしたか(この時点では実名で構いません。外部に出しません)
  • その判断が行われた状況(納期、人員、上司の指示、システムの状態)
  • いつ、どのように発覚したか
  • 発覚までにどれだけの期間があったか

「その判断が行われた状況」を省略しないでください。ここが抜けると、後の段階で「本人の意識の問題」という結論に流れます。

段階2:分岐点を特定する

時系列の中から、別の選択ができた時点を探します。

分岐点の種類問い
予防どの時点で、そもそも起きない状態にできたか
検知どの時点で、誰かが気づけたか
停止気づいた後、どの時点で止められたか
拡大防止止められなかったとして、影響を小さくできた時点はあるか

4つすべてを埋めます。多くの事例では、検知の分岐点が複数見つかります。「気づいていた人はいたが、言わなかった」「システムのログには残っていたが、誰も見ていなかった」。この形が典型です。

段階3:各分岐点を妨げたものを書く

ここが最も重要な段階です。別の選択を取らなかった理由を、個人の資質ではなく業務上の事情として書きます。

分岐点妨げたもの(悪い書き方)妨げたもの(良い書き方)
正規の手順を踏む本人の意識が低かった正規の承認は4段階あり、納期に間に合わなかった
上司に報告する報連相が徹底されていなかった前月に別の担当者が報告して叱責されていた
異常に気づく確認が甘かった該当のログは誰の担当業務にも入っていなかった

右側の書き方ができているかどうかで、この作業の価値が決まります。左側で止めると、出てくる対策は「意識の徹底」だけになります

判定の基準は単純です。「意識が高い人であれば防げたか」と問い、防げないなら設計の問題です。

段階4:特定できる情報を置き換える

ここで初めて抽象化します。置き換える対象は次のとおりです。

置き換えるもの置き換え方
部署名「A部門」「受注を扱う部署」
個人名・役職「担当者」「その上長」
時期「繁忙期」「期末」(年月は書かない)
金額桁を丸める、または「一定額を超える」
取引先名「主要取引先の一社」
固有の業務名・システム名一般的な呼称に置換

置き換えた後、社内の第三者に読ませて、誰の件か分かるかを確認してください。分かる場合は、複数の事例を合成するか、別の事例に差し替えます。

当事者が在籍している間は使わない

原則として、特定される可能性がある間は教材にしないでください

教材化によって当事者が不利益を受けると、その事実は社内に伝わります。以後、インシデントは報告されなくなります。報告される経路を維持することのほうが、教材1本より価値があります

教材の形にする

抽象化した事例は、読み物ではなく選択を迫る形にします。

【場面】
あなたは〔役割〕です。〔状況の説明を3〜5行〕

このとき、〔取引先/上長/同僚〕から次の依頼がありました。
「〔具体的な依頼内容〕」

期限は〔時間的な制約〕です。正規の手順を踏むと〔かかる時間/手間〕。

【問い1】あなたはどうしますか。理由とあわせて答えてください。
【問い2】この状況を作らないために、事前に何を変えておくべきだったと思いますか。

問い2を必ず入れてください。問い1だけだと「正しい行動を選ぶ訓練」で終わりますが、問い2を入れると、受講者から業務設計の改善案が出てきます。これが研修を統制につなげる経路になります。

副産物:業務設計の欠陥リスト

段階3で書き出した「妨げたもの」を、事例をまたいで集めます。同じ事情が複数の事例に出てきたら、それは個別の問題ではなく構造です。

繰り返し現れる事情意味する構造対処の担当
正規の手順が納期に間に合わない承認の段数が過剰業務プロセスの所管
報告した人が不利益を受けた記憶報告の心理的コストが高い人事・評価
ログはあるが誰も見ていない監視が業務として割り当てられていない内部統制
一人で完結できてしまう職務分掌の不備内部統制
数値目標が達成困難だった目標設定の問題経営・人事

この表は研修の成果物ではなく、経営への報告事項です。研修の担当部門だけで抱えると、来年も同じ事例が積み上がります。

運用上の注意

対処済みの問題を扱い続けない

教材で扱った分岐点の問題が解消されたら、その事例は差し替えます。すでに直っている問題を毎年扱うと、現場から「実態と合っていない」と見なされ、研修全体の信頼が落ちます

題材が出てこない場合

大きなインシデントが起きていない会社では、次が題材になります。

  • ヒヤリハット、未遂
  • 内部通報の窓口に上がった相談
  • 内部監査・外部監査での指摘事項
  • 他部署では問題になったが、自部署では黙認されている運用

実害が出る前の事例のほうが、分岐点が明確で教材としては優れています。何も出てこない場合は、事例がないのではなく報告される経路がないことを疑ってください。

まとめ

  • 他社事例では自分の業務と結びつきません。効くのは自社で実際に起きた事例です
  • 抽象化は4段階です。時系列 → 分岐点の特定 → 妨げたものの記述 → 特定情報の置換
  • 段階3の「妨げたもの」を、個人の資質ではなく業務上の事情として書けるかどうかで価値が決まります
  • 教材は読み物ではなく選択を迫る形にし、「事前に何を変えるべきだったか」を必ず問います
  • 当事者が特定される可能性がある間は使わないでください。報告経路の維持が優先です
  • 副産物として出る「業務設計の欠陥リスト」は、研修の成果ではなく経営への報告事項です