退職の引き止めでできるのは、本人の意思がどこまで固まっているかと辞める理由を1回の面談で確かめ、会社が本当に変えられる条件があればそれを示すところまでです。期間の定めのない雇用は、民法第627条第1項により、申し入れから2週間を経過すると終わります。退職届を受け取らない、損害賠償をほのめかす、といった引き止めは法律上の効果がないうえ、紛争のもとになります。この記事では、してよい引き止めの線と面談の進め方を先に示し、後半で引き止めがそもそも効かない理由と、申し出の前に打てる手を扱います。
引き止めが効かない構造
退職の申し出を受けてから引き止めても、多くの場合は覆りません。理由は3つあります。
- 申し出の時点で判断は済んでいる:次の勤め先が決まってから伝える人が多く、会社が知るのは最後です
- 辞める理由が、面談の場で変えられないものである:厚生労働省「雇用動向調査」(令和6年)で、転職した人が前の職場を辞めた理由を見ると、女性では「労働時間、休日等の労働条件が悪かった」12.8%、「職場の人間関係が好ましくなかった」11.7%が上位にあり、男性では「給料等収入が少なかった」10.1%が上位にあります(いずれも「その他」を除く)。労働時間・人間関係・賃金は、面談で約束しても翌月から変えにくいものです
- 引き止めの話し方が、辞める理由を強める:「今辞められると困る」「後任はどうするのか」という話は会社の都合で、本人の辞める理由には答えていません
厚生労働省の「個別労働紛争解決制度の施行状況」(令和7年度)では、民事上の個別労働紛争の相談のうち「自己都合退職」が38,386件ありました。同じ資料には、就業規則で1か月前の申し出を定めていることを理由に退職を認めなかった事業主に対し、労働局が民法第627条第1項にもとづいて助言した事例も載っています。辞めさせない方向の引き止めは、紛争の入口になりやすいということです。
つまり、引き止めの面談は「説得の場」ではなく、「会社が変えられることが残っているかを確かめる場」と考えたほうが実態に合います。
引き止めの判断材料
法律上の線
| 雇用の形 | 退職のルール | 根拠 |
|---|---|---|
| 期間の定めのない雇用 | いつでも申し入れができ、申し入れの日から2週間で終わる | 民法第627条第1項 |
| 期間の定めのある雇用 | やむを得ない事由があれば直ちに解除できる | 民法第628条 |
| 期間が1年を超える有期契約(一部を除く) | 契約の初日から1年を経過した日以後は、申し出ればいつでも退職できる | 労働基準法第137条 |
| 入社時に明示された条件と実際が違う場合 | 労働者は直ちに契約を解除できる | 労働基準法第15条第2項 |
あわせて、労働基準法は暴行・脅迫などで意思に反して働かせることを禁じ(第5条)、違約金や損害賠償額をあらかじめ決めておく契約も禁じています(第16条)。
してよい引き止め・してはいけない引き止め
| してよい | してはいけない |
|---|---|
| 退職の理由を聞き、会社で変えられるものがあるか確かめる | 退職届を受け取らない、話を聞かずに突き返す |
| 異動・働き方・賃金について、基準に照らして示せる条件を伝える | 「辞めたら損害賠償を請求する」とほのめかす |
| 考える時間を置いてもう一度話す日を決める | 何度も呼び出して面談を繰り返す |
| 引き継ぎの期間を本人と話し合って決める | 有給休暇の取得や退職日を一方的に認めない |
引き止めるかどうかを決めるチェックリスト
- □ 辞める理由のうち、会社が3か月以内に変えられるものがあるか
- □ 変える条件は、ほかの社員にも同じ基準で説明できるか
- □ 本人の次の勤め先がすでに決まっていないか
- □ 引き止めた場合に、上司との関係を立て直せる見込みがあるか
2つ以上に「いいえ」が付くなら、引き止めより、円満な退職の段取りに切り替えたほうが双方の損失は小さくなります。
引き止めの面談の進め方
手順1:申し出を受けたその日に、受け止めたことを伝える その場で結論を出さず、「話を聞かせてほしい」と面談の日を決めます。上司が一人で抱えず、人事にも同じ日に知らせます。
手順2:面談では、次の順で聞く
- いつ頃から考えていたか
- 一番大きい理由は何か。二番目は何か
- 次の勤め先は決まっているか。決まっているなら、何が決め手になったか
- 会社が何を変えていれば、辞めることを考えなかったか
責める言い方や、会社の事情の説明はこの場では控えます。
手順3:会社が変えられることを整理し、示すか決める 異動、担当業務、働き方、賃金のうち、基準に照らして説明できるものだけを示します。約束できないことは約束しません。
手順4:本人の結論を尊重する 結論が変わらなければ、退職日と引き継ぎを話し合います。面談で聞いた理由は記録に残し、同じ理由で辞める人を減らすために使います。退職理由の集め方は、退職面談は意味ないと言われる理由と、退職理由データの設計手順で扱っています。
面談で避けたい言い方と言い換え
| 避けたい言い方 | 本人に伝わること | 言い換えの例 |
|---|---|---|
| 「今辞められると困る」 | 会社の都合しか考えていない | 「辞めようと思った理由を、まず聞かせてほしい」 |
| 「ここで通用しないなら、どこでも通用しない」 | 能力を否定された | 「次の職場で何をしたいと考えているか教えてほしい」 |
| 「後任が見つかるまで待ってほしい」 | 退職日を会社が決めようとしている | 「引き継ぎに必要な期間を一緒に見積もりたい」 |
| 「みんなも我慢している」 | 理由を聞く気がない | 「その点は、ほかの人からも聞いているか確かめたい」 |
引き止めない場合の退職の段取り
引き止めないと決めたら、次の順で段取りを組みます。
- 退職日を本人と確定し、書面で残す
- 担当業務・取引先・進行中の案件を一覧にし、引き継ぎ先と期限を決める
- 残っている有給休暇の日数を本人と確かめ、最終出社日を決める
- 貸与物・アカウントの返却と停止の日を決める
- 最後の面談で、退職理由を改めて聞き、記録に残す
段取りを会社側から先に示すと、本人は「引き止められ続けるのではないか」という不安から離れ、引き継ぎに集中できます。
実行時の落とし穴
- 昇給だけで引き止める:辞めると言った人だけが上がる形は、残る社員に「言った者勝ち」の印象を残します。市場の相場と社内の賃金の差が原因なら、個人の昇給ではなく賃金表を見直す話です。考え方は「不満はないはず」のエース社員はなぜ辞める?社内給与と外部市場の価格差が生む経済合理性が参考になります
- 引き止めた後の約束を守らない:異動や業務の変更を約束して実行しなければ、次は申し出の前に黙って転職先を決めます
- 申し出が出てから動く:引き止めが効かない最大の理由は時期です。勤怠の乱れや面談での発言の変化など、申し出より前に出る兆しを上司が拾える仕組みのほうが効きます。兆しの見落としが起きる構造は、なぜ突然退職されるのか?日常的なマネジメントプロセスが破綻している組織の構造的欠陥で詳しく扱っています
退職をめぐる扱いは雇用の形や就業規則の定めによって変わります。個別のケースは、労働基準監督署・都道府県労働局の総合労働相談コーナー、社会保険労務士や弁護士に確認してください。離職と定着を扱うほかの記事は、人事・評価にまとめています。
出典
- e-Gov法令検索「民法」第97条・第627条・第628条 https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- e-Gov法令検索「労働基準法」第5条・第15条・第16条・第137条 https://laws.e-gov.go.jp/law/322AC0000000049
- 厚生労働省「令和7年度個別労働紛争解決制度の施行状況」(2026年) https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/newpage_00235.html
- 厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概況」(2025年) https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/doukou/25-2/dl/gaikyou.pdf




